私のブルガリア体験:ブルガリアに行かれた方の体験談や最近のブルガリアの様子などをご紹介します。

■   連載中   中村 靖 氏 : 我が音楽人生 ①  (神静民報)

        ①「昭和音楽短期大学からブルガリア国立音楽院へ」

                

 大学に入学した僕は、まず入学式で驚いた。男が居ない!いや、居ないのでは無い。少ない。二百八十数人の
新入生のうち男八人。居ないのも同じだ。
科目によってはクラスに男は僕だけということもあり、生まれつきシャイな性格の僕はこれが嫌だった。これに
関しては卒業するまで変わらなかった。今でも知らない人が多いところは嫌だ。そんな事はともかく初めての歌の
レッスンで、「Sento nel core」というイタリア古典歌曲を課題にいただいた。
イタリア語という使ったことない外国語の曲。どの本に出てるのかもわからない。同門の柏村君に色々教えてもらっ
た。とにかく聞いた方が手っ取り早い。決められた時間より早くレッスン室に入り、人の歌うのを聞いて覚えた。
そんな一年生を過ごし、二年生になったが、まだこの頃はオペラなどには全く関心が無く、むしろ好きでなかった。
オーケストラやピアノや器楽をよく聴いた。
さて、二年生になってもイタリア古典歌曲かな?と少しうんざりしていると、二年生はオペラのアリアというのを
やるそうで、これも柏村君に聞くと、「オペラの中で一人で歌う部分だよ」という。
大学の帰りに当時小田原駅前にあった「名曲堂」というレコード屋で、「十人のバリトンによる十曲のアリア」と
いうレコードを買って聴いてみた。その中で特に気に入ったのがヴェルディ作曲の「椿姫」とジョルダーノ作曲の
「アンドレア・シェニエ」という超有名な曲で、何年も勉強してやっと歌わせてもらえる曲などと知らない僕は
「椿姫」をレッスンに持っていった。
「君、最初からこれをやるの?」というピアニストに「ええ、良い曲だから」「そりゃそうだけど、これを最初に
やるのは・・」と話していると下八川先生が入ってきた。
「学長、中村君はこれを持ってきたんです」とピアニスト。「君、これからやるのか?」「はい」「まあ、聴いて
みようか」というわけで、頑張って歌った。
「君、なかなか良いな。これでいこう」というわけで、オペラというものにどんどん引き込まれていき、そして
ヴェルディのオペラをやればやるほど、下八川先生は「君、なかなか良い」とベタ褒めで、僕の鼻は天井知らずの
高さになっていった。
下八川先生から電話がかかり「中村君、君ね、卒業試験は明日の声楽科の試験の一番最後にホールで歌いなさい」
「えーっ!でもピアニストの都合が、」「僕がピアニストには頼んだから大丈夫だ」「はっ、はい。」ということで、
異例ではあったけど、まあ入学試験も異例だったし、先生の作った学校で、下八川先生の指示だし、こっちも偉そうに
してればいいやとばかりに声楽科の最後に歌った。それも特に難しいヴェルディの「仮面舞踏会」のアリア。結果は、
声楽科の最高点を、グーンと超えて、八五点。
その次の年、一九七九年の一月末のレッスンで、「先生、僕はどこに留学したら良いですか?イタリアですか?」
「いや、君は、ブルガリアに行った方が良い」「ブルガリア?どうしてですか?」「男性の低い声は東欧の方が良い。
ニコライ・ギャウロフのような良い歌手がたくさん出た国だから」「わかりました」これが下八川先生との最後で
あった。
翌三月に、昭和音楽大学学長であり、藤原歌劇団の創立者のメンバー、同じバリトン歌手であり勲四等瑞宝章の日本
音楽界の巨人は急逝した。
遺言のように「ブルガリアに行け」と言われた僕は、その当時毎年行われていた「ブルガリア声楽ゼミナール」に
参加して、ブルガリアに行った。
十人くらいの参加者と共に二週間のゼミナールで。そこで、マーティ・ピンカスという先生と知り合い、「来年から
来るなら私がレッスンをしましょう」「よろしくお願いします」ということで、来年から来ることを約束して日本に
帰ってきた。当時のブルガリアは共産圏。社会主義と資本主義という二つの主義の国があることは知っていたが、
その実情は知らない。ただ漠然とソヴィエトのような国。全員が公務員。私有財産は無い。物価が安い。ブルガリアと
言えばヨーグルト。言葉はブルガリア語?ロシア語?という程度のことで、行けばなんとかなる。英語は通じる
だろう。と軽い気持ちで留学したのである。
在日ブルガリア大使館員の「ソフィアの飛行場に文部省の人が来て、あとは全部やってくれるからノー・
プロブレム! 」という言葉を信じて、アエロフロート・ソ連航空機に乗り込んだ。
モスクワで一泊して、いよいよソフィアに到着。飛行機の窓から見るソフィアは、大きなネフスキー寺院の金色の
屋根が、去年と変わらずに光っていた。
飛行機を降りロビーに出ると、東洋人三人が、「中村さんですね?ブルガリア文部省から頼まれて迎えにきました。
もう大丈夫。安心して下さい」と言われて、建物の外に出た。夏の厳しい日差しが容赦なく僕の身体を突き刺した。
これが結果的に十一年に及ぶヨーロッパ留学の第一歩である。

 

中村靖 (なかむらやすし) 昭和31年、神奈川県生まれ。バリトン歌手。
昭和音楽短期大学声楽科卒業後、ブルガリア国立ソフィア音楽院修了。帰国後は藤原歌劇団、
日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍。昭和音楽大学講師、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部講師、
日本演奏家連盟会員、日露音楽家協会会員、日本ブリテン協会理事。箱根町在住。
喜仙荘代表取締役

* ブルガリア国立音楽院を終了され帰国後は藤原歌劇団、日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍された
中村靖氏のブルガリアでの生活を寄稿された記事が、静岡県西部の地域新聞「神静民報(しんせいみんぽう)」に
掲載中です。

中村靖氏「我が音楽人生」シリーズ (「神静民報」に連載された記事を再録しています。)
①「昭和音楽短期大学からブルガリア国立音楽院へ」
②「ブルガリア国立音楽院に入って」
③「ブルガリアでの生活が始まった」
④ 「ブルガリアという国」
⑤「ギリシャでの出会い」
⑥「いよいよヨーロッパデビュー」
⑦「いざ出陣!」
第8回 は2023年7月15日版に掲載されます。