私のブルガリア体験:ブルガリアに行かれた方の体験談や最近のブルガリアの様子などをご紹介します。

■   連載中   中村 靖 氏 : 我が音楽人生 ②  (神静民報)

            ②「ブルガリア国立音楽院に入って」

 夏の暑い日にソフィア入りした僕は、出迎えてくれた三人の中の一人矢島君と同じ学生寮に入った。「学生村」と
呼ばれている地域に学生寮がたくさん立っている。彼は東海大学から留学している学生で、No.10の寮で部屋は八階の
805号だった。ちなみに僕の部屋は810号室。この部屋が僕の留学生活の初めの一歩だ。ドアを開けると右に洋服掛け
、左のドアはトイレ。ここにはシャワーが付いていて湯船は無い。部屋は十畳位の広さで、ブルガリア人の学生と
同室。学生と言っても大学院生や研究生などが入る寮なので年齢はほとんどの学生が上だった。
一緒の部屋のブルガリア人はマリン・イグナトフという心理学研究所の研究員。十一月の初めくらいに戻ってくると
いう。戻ってくるとはどういうことかというと、秋は収穫の時期。大学生や高校生は地方の農村に派遣され収穫の
手伝いをすることになっているので、学生寮は十一月くらいまでは人もまばらだ。当時の社会主義の国の政策だ。
荷物を置いて、八階の部屋から外を見ると、快晴で見晴らしが良い。なだらかな起伏の向こうにNo.9の三棟の高い
建物が見えていた。
ノンビリと景色を見ていると「中村さん。ドマキンのところへ行きます」矢島君が入ってきた。
ドマキン?なんだ?矢島君に連れられて一階に降りながら「矢島さん。ドマキンてなんですか?」
「ドマキンとは寮監です。ドマキンとは男性名詞です。ここのドマキンは女だからドマキンカ」
「ドマキン!?なんだか面白いですね」
「それに定冠詞を付けるとドマキンカタです」
「ドマキンカタ?定冠詞が名詞の後に付くんですか?」
「はい。世界で唯一の冠詞が名詞の後に付く言語です」
僕は勝手に「土間金方」という漢字を思い浮かべ、笑いを堪えるのがやっとだった。
かくして最初に覚えたブルガリア語はドマキンカタという単語である。言葉について少し説明すると、英語で
The storeというのがstore Theという並び方になる。が、ここはローマ字ではない。キリル文字だ。D→Д、N→Н、
F→Ф、S→Сという具合だ。ちなみに靖という僕の名前はローマ字ではYASUSHI。キリル文字だとЯСУШИ と
いうことになる。
さて、言葉のことはさておき、九月十五日のレッスン打ち合わせに行き一年ぶりにピンカス先生に会った。
レッスン室やレッスンの曜日、時間などを聞いて帰ってきた。留学生の中に中野さんという日本人の女性がいて
通訳してくれた。ただし、中野さんも今年からの留学でブルガリア語は話せない。ピンカス先生とお得意のフランス語でやりとりしていた。ピンカス先生は他にロシア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語が話せる。高校までの
英語教育しか受けていない僕とは大違いだ。
さあいよいよレッスン開始。最初のレッスンにヴェルディのオペラ「マクベス」の中のアリアで「愛も名誉も」と
いう曲を持っていった。
日本の大学と違いレッスンの時間に来られる学生はみんな来ているので、その中で順番を決めてレッスンが始まる。
みんなが見ている中でのレッスン。これは心臓ドキドキだ。しかし!!!大学時代に褒めまくられて育ち、入学試験は
ビリだったが卒業は一番、年末の「メサイア」公演では学生で初めて、オーディションで数多(あまた)の先生を退けて
ソリストになり、デビューはハンス・レーヴラインという名指揮者と共演し、卒業時には優等賞と学長賞を受賞したと
いう男だ。自信満々に一声を出した。
周りの学生の顔が変わった。思った通りに驚いている。僕はオセロが戦いから凱旋してきた時のように鼻高々で席に
戻った。
十月も半ばになるといよいよ指揮者とのレッスンが始まる。ピンカス先生はアッセン・ナイデノフというソフィア
国立歌劇場の音楽監督に僕をつけてくれた。
ナイデノフ先生は1900年生まれ。だから八十一歳だ。オペラハウスの音楽監督の部屋でのレッスンが毎週あり、
色々な曲をみてもらった。まだまだ話は続きます。次回はブルガリアでの生活その他をお話ししましょうか。

              

                 ソフィア国立歌劇場


 ブルガリア国立音楽院を終了され帰国後は藤原歌劇団、日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍された
中村靖氏のブルガリアでの生活を寄稿された記事が、静岡県西部の地域新聞「神静民報(しんせいみんぽう)」に
掲載中です。

中村靖氏「我が音楽人生」シリーズ (「神静民報」に連載された記事を再録しています。)
①「昭和音楽短期大学からブルガリア国立音楽院へ」
②「ブルガリア国立音楽院に入って」
③「ブルガリアでの生活が始まった」
④ 「ブルガリアという国」
⑤「ギリシャでの出会い」
⑥「いよいよヨーロッパデビュー」
⑦「いざ出陣!」
第8回 は2023年7月15日版に掲載されます。
            
中村靖 (なかむらやすし) 昭和31年、神奈川県生まれ。バリトン歌手。
昭和音楽短期大学声楽科卒業後、ブルガリア国立ソフィア音楽院修了。帰国後は藤原歌劇団、
日本オペラ協会、新国立劇場を中心に活躍。昭和音楽大学講師、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部講師、
日本演奏家連盟会員、日露音楽家協会会員、日本ブリテン協会理事。箱根町在住。
喜仙荘代表取締役